TOP>仏教豆知識>法事の配りモノ 法事でする法話の一考察

法事の話

最近、法事の後の話に「配りモノ」をします。A4サイズの用紙に、色々なことを書いたお話の題材です。それを皆に渡して、読んでお話をします。時には誰かに読んで貰います。

これのいいところは、関心が高くなる、聞くだけではなく見ることによって、理解度が上がる。法事の一つのイベントという形になり、法事に来たことの充実感がある。法事が唯足が痛くて、わからないお経で、皆で食事してイッパイ飲んで帰るから、仏事に参加したという充実感がある。施主家の評判が良くなる。その用紙を持って帰ってくださいというと、皆大切に持って帰ってくれます。


法事の話

最近、法事の後の話に「配りモノ」をします。A4サイズの用紙に、色々なことを書いたお話の題材です。それを皆に渡して、読んでお話をします。時には誰かに読んで貰います。

これのいいところは、関心が高くなる、聞くだけではなく見ることによって、理解度が上がる。法事の一つのイベントという形になり、法事に来たことの充実感がある。法事が唯足が痛くて、わからないお経で、皆で食事してイッパイ飲んで帰るから、仏事に参加したという充実感がある。施主家の評判が良くなる。その用紙を持って帰ってくださいというと、皆大切に持って帰ってくれます。

 

「配りモノ」の内容は色々です。

1、 六種供養の話 

2、 食事作法の話

3、 御大師様のお言葉

4、 お釈迦様の法句経のお言葉 譬え話

5、 坂村真民さんの詩

6、 色々な方がしている生活の知恵

7、 名言 名句 

8、 その他

 

これと決まったモノがあるのではなくて、自分の話しやすい題材をいくつか載せます。三つも五つも載せて、そのうちの二つとか三つとかを、その場の雰囲気、年齢層等で話します。沢山、長く話さないことがこつだと思います。適量を心がけましょう。長く話すと逆効果です。


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《 生きているからには 》

生きているからには しよぼしょぼとした 目なんかせず
生き生きした 魚の目のように いつも 光っていようではないか

生きているからには くよくよした泣きごとなんか言わず
春の鳥のように 空に向かって 明るい歌をうたおうではないか

生きているからにはできるだけ世のため人のため
体を使い あの世へ行った時 後悔しないように
発奮努力しようではないか

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つみかさね

一球一球のつみかさね
一打一打のつみかさね
一歩一歩のつみかさね
一坐一坐のつみかさね
一作一作のつみかさね
一念一念のつみかさね

つみかさねの上に
咲く花
つみかさねの果てに
熟する実
それは美しく尊く
真の光を放つ




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三弁の花

華厳経は
心に花を咲かせよと
お説きになったお経である
慈悲
誠実
柔和
この三弁の花を
小さくてもいい
咲かせてゆこう


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生 死 事 大
 無 常 迅 速 
各 宣 覚 醒
謹 莫 放 逸

(しょうじのことはだいなり)
(むじょうはじんそく)
(おのおのよろしくかくせいすべし)
(つつしんでほういつすることなかれ)

迷いの生死を如何にすべきか これは大問題
なのに無常の時の流れは 
あっという間に過ぎてしまうぞ
各々 迷いから目覚めよ
何をうかうかしておるか

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健康 人生第一の利

知足 人生第一の富

良友 人生第一の親

菩提 人生第一の楽(楽しみ)


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見なくても美しい花を供えたい
食べなくてもおいしいものを供えたい
聞こえなくても一緒に話がしたい
そういう気持ちで御先祖の供養がしたい


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食事作法

 

修行中に食事作法(じきじさほう)を教えていただき、食事の度にお唱えいたします。その中に、感謝・反省の気持ちを表す「五観の偈」というのがあります。食事をいただく心構えです。

・一つには己の行為をかえりみ、この食物が如何にして作られたかを思う。

・二つには己の徳を積む行いが、完(まった)きか欠けているか多いか少ないかを思う。

・三つには善心を妨げ過ちを起こすは、貪(むさぼ)りと怒りと愚痴なることを思う。

・四つには食物は命を養うためであり、正しい食物を必要の限度にとることを思う。

・五つには正しき生活を目標にして、徒に世の栄達を願わざるを思う。

(一)食物が人の口にはいるまでにどれだけ多くの労苦が加わっているか。(二)果たして自分はこの食物を頂くだけの正しい行い、相応しい働きをしただろうかと反省し(三)気に入ったからむさぼるように食べ、気に入らぬからといって腹を立てるようなわがままな気持ちをいましめ(四)まさに食物は、われわれの身体を養い育てる良薬と心得て食べる(五)尊い仏のいのちを生かしきるために、いまこの食物を頂くのである。

食事の意義と心構えについて、少し見つめ直してみませんか。


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この次の文章はとっても長いので 適宜編集したらよいと思います




臨終正念は即身成仏
お寺の玄関に「りんじゅうしょうねん」と書かれた額が有り、そこには
いつ死ぬかわからない
いつ別れるかわからない 
今やらないでいつする
自分がやらないでだれする
と書かれています。
臨終正念とは臨終の時に迷心や邪念が起こらず、心が正しく安らかなことをいいます。日蓮 聖人は信仰の大事は臨終正念だと申され「先ず臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」と申されています。 いつ死ぬかわからない、いつ別れるかわからないと……。その時々を充実して生きる事が大切なのです。茶道の心得をいう一期一会の心でもあります。

お釈迦さまが容易なことばで説かれた法句経(ほっくきょう)というお経に次のような教えがあります。  

人もし生くること   百年(ももとせ)ならんとも  
おこたりにふけり   はげみ少なければ   
かたき精進(はげみ)に   ふるいたつものの   
一日生くるにも   およばざるなり
お釈迦さまは人生の価値について、何才まで生きたかの長さではなく、どのように人生をおくったか、その内容が大切なのだと申されているのです。 「臨終正念」、とっても大切な事だと思います、私も今回の荒行入行の決心は「臨終正念」、修行が出来る時に悔いの残らないように修行をさせて頂こうと決めたものです。信仰に裏打ちされた充実の人生、そこに本物の臨終正念、即身成仏があると思います。         

 生活習慣病と感謝
最近話題の「生活習慣病」とは、食べ過ぎ、飲み過ぎなどの生活の乱れや運動不足、喫煙など普段の生活の習慣が積み重なり、それが原因で起こる病気のことで、かつては「成人病」と呼んでいました。
この生活習慣病の原因には、複雑雑多な社会構造から起こる「ストレス」も大きな要因となっています。
日本の医学博士が、カナダのストレス学説で有名なハンス ・セリエ博士を訪ね「現代人 をストレスから救う方法はないでしょうか」と質問したところ、「その原理は、東洋にあるでしょう。それは『感謝の原理』です」と答えたといいます。
感謝の原理とは何でしょう、「もったいない・ありがたい」という謙虚な心の中に起こる「感謝の心」ではないかと私は思います。しかし、「もったいない」という言葉はとうの昔に子供達の字引から無くなっているといいます。

最近こんな話しを聞きました、「小学校三年生になる男の子がズボンに鉤裂き(かぎさき) をつくって帰って来ました。そのズボンは買ってきたばかりだったので、さすがに母親も捨 ててしまうのがおしくなり、裂け目を縫っていると、それを見た少年が、「お母さん、もったいないからおやめよ。そんなことしても僕、はかないもの」と言ったといいます。 「もったいない」という言葉の使い方がどこか変です。

感謝のこころは温かい思いやりのこころに対して、本来自然に素直に出てくるものです 。相手を思いやるこころと自然な感謝のこころ、生活習慣として「感謝のこころ」が取り戻されれば、ストレスも生活習慣病も犯罪も激減すると思うのですが。

 

  

「もったいない」とは、早い話が「この世に存在するすべてのモノには命がある」ということであろう。その「モノ」は生きとし生けるもののみならず、無機物までにも当然命があると考える。これは多神教徒の日本人にはよく納得がいくはずである。海には海の神、山には山の神、川には川の神、大地には産土神、とにかくすべてに神が宿っている。

 仏教では、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という。この世の生きとし生けるものはすべて仏性(仏になる可能性)がある。すなわち仏の命が宿るというのである。また「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という。草も木も山も川も土も岩も無機物ですら仏に成る。すなわち仏の命が宿るというのである。

 人間の命を考えてみると、「いのち」には二つの特徴がある。一つは必ず死ななくてはならないという「有限性」であり、もう一つはいつ死ぬかわからないという「危機性」である。だからこそ我々は、今「いのち」のあることをありがたいと思い、精いっぱい生きていこうということになる。

 同様にモノにも「いのち」があるということは、この二つの特徴があるということである。つまり、モノはいずれ必ず壊れるという「有限性」があり、いつ壊れるかわからないという「危機性」もある。とすれば、今モノがあることはありがたいことであり、精いっぱい大事に使いきるようにしようということになる。

 「まだ使えるじゃないか、もったいない。モノを粗末にするな……」

 こんなことを戦後の貧しい時代に、我々は日常茶飯に聞いて育ったものである。衣類はつくろって大事に着る。弟妹は兄姉のお古の靴やかばんを使うなどは当たり前であった。針が折れて使えなくなっても、「その針によって裁縫が上達したのだから」と言って針に感謝をする。「針供養」である。同様に「筆供養」「茶筅供養」等々……。こういう行事が今もなお行われている所があると聞くと嬉しくなる。モノを大事にし、最後まで使いきることである。使いきったら感謝の誠を尽くすのだ。このような営みが日本人の良さだったのではないかと思う。「もったない」と「けち」はまったく意味が違うのである。

 

 

看護婦さんのひとりごと,もったいない,感謝,怒る,

 「ああもったいない、もったいない」。
 104歳で亡くなられたAさんの口癖でした。
 お孫さんの面会があると両手を合わせて、「ああもったいない、もったいない」。
 看護婦さんが食事を運ぶとまたまた両手を合わせて、「ああもったいない、もったいない」。
 それはそれは本当に心から感謝しているという気持ちが相手に十分伝わるほど、心を込めておっしゃっていた言葉でした。そのためでしょうか、誰からも好かれる方でした。
 「なんだこのやろ−」。
 片手をげんこつにしていつも怒っていた、86歳Bさんの口癖でした。お亡くなりになられる直前まで怒鳴っておられました。
 ご家族の面会もほとんどなく、いつも独りぼっちでした。
 長い人生の幕を閉じたお二方でした。なぜこのような違いが生まれたのでしょう。人に好かれるのと、いつも独りぼっちなのと。      
 一生涯の間、お二方の身のまわりにはさまざまなことが起こってきたと思います。それがどんな些細なことであっても「ありがたい」と受け止めるように努力して来たのか、それとも「腹が立つ」と受け止めていったのか。そこに違いがあるのだと私は思いました。
 さてあなたはどちらの人生を歩んでいると思いますか?

 

 

 

【 あたりまえが実は有難い 】
21世紀のお正月を迎えました。皆様方の多くが、神社やお寺へ初参りをされ、幸せを祈られたことと思います。人間は本能的に不幸を嫌い、幸せを求めます。実は、幸福は青い鳥と同じく皆さんの足下にあるのですが、気付いている人は少ないようです。あるいは、外ではなく、心の中にあると言った方がもっと正確かも知れません。

幸せを手に入れる方法は数限りなくありますが、それは格段の努力を必要とするものでは、ありません。汗もお金も必要としない方法が、一つあります。少し、考え方を変えるだけでいいのです。ちょっと、気付くだけでいいのです。

「それは、今持っているもの、できることに感謝することです。それだけで幸せはやってくるのです。」

目が見えなかった人が手術を受けてよく見えるようになってからの事を、こう表現しています。食事の後、台所の流しでお皿やカップを洗っている時の情景です。「まあ、シャボン玉がなんてきれいなんでしょう! 窓の外の太陽や緑の輝きを見れるなんて素晴らしい。食器を自分で洗えるなんて、こんな幸せがあるかしら!」

台風で停電になり冷蔵庫の中の物が腐ったりして、始めて我々は電気のありがたさを実感します。同じように本当は、「目が見えるのは奇跡、耳が聞こえるのは奇跡、手足が動くのは奇跡、言葉が話せるのは奇跡、食べられるのは奇跡なのです。」

また、「普通の両親が二人ともそろっているのも奇跡、学校で勉強できるのも奇跡、働けるのも奇跡、食べものに不自由しないのも奇跡なのです。」(地球全人口60億人の4分の1の人は満足に食べていないそうです。)

江戸時代のある妙好人の話です。かりに太平さんとしておきましょう。ある雨の日でした。

太平さんが、大雨の中を傘もささずに、妙に嬉しそうに小躍りしながら歩いています。それを見た村人は、不思議に思い「おーい、太平さんよー。何をそんなに嬉しそうにしているんだい。」と尋ねました。

太平さんは、こう答えたそうです。「いやー、鼻の穴が下を向いているのが嬉しゅうて嬉しゅうて。もし、上をむいていてみい、雨の日には、息ができんで、死んでしまうがな。何とありがたいことだんなー。」と答えたそうです。

「あたりまえが実は有難い。」それに気付きさえすれば、皆さんは皆、幸せになれるのです。

ためしに、自分の体の各部分(手や足や胃や肛門や肝臓や心臓や肺など)(もし、病気や痛みがあれば、特にその部位)にたいして、生まれてから現在まで、次の三つのことを調べてみてください。

          1.してもらった事

          2.お返しした事

          3.迷惑かけた事

毎日続けて1ヶ月位たった時、あなたの心の中に何か変化が起こるでしょう。また、体の痛みが軽くなっているかもしれません。

人は皆、自分がしてあげたことはしっかりと覚えています。しかし、まわりの人や物からしてもらっているたくさんのことは、忘れているのが普通です。夜寝る前に、今日一日まわりの人々や物から、してもらったことを数え上げてみてください。きっとものすごい数になることに、ビックリされると思います。

例えば、今私達がよく使っている灯油やガソリンは、何億年か前の微生物や太陽エネルギーがその源です。また、水道の水があなたの家にくるまでに、どれだけ多くの人々や、多くの物のお世話になっているか、考えてみてください。夕食の時、ご家族みんなで数え上げてみるのも面白いでしょう。

『あたりまえが実は有難い。』のです。それに気付くことが、幸せへの入り口なのです。

不平、不満、文句、悪口、恨み、非難、憎しみ、復讐は、不幸の友達です。
受用、感謝、赦し、建設的提案・行動、仏や神の愛、奉仕、人助けは、幸福の友人です。

あなたは今後の人生を、不平不満を抱き、他人を憎み非難しながら、過ごしますか? あるいは、自分の体やまわりのすべての人々、すべての物、すべての出来事に感謝しながら過ごしますか? 幸せへの道を選ぶのは、すべて、あなたの考えと行動次第なのです。 合掌


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この秋は 雨か嵐か 知らねども

今日のつとめに

田の草をとる


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(お墓に書いてありました)

我もかつて 汝のあるが如くなりき

汝も又やがて 我のあるが如くならん


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「無常を思う」

お釈迦様の教えに「四馬の警え」というのがあります。これは、人の無常を思う心のありようを、四種の馬にたとえて示されたものです。第一の馬は、御者のふりあげた鞭の影を見ただけで走りだす馬のことで、これは最も優秀な馬です。第二の馬は、鞭が毛にふれてから走りだす馬。第三の馬は、肉に触れてから、ようやく走りだす馬。最後の第四番目の馬は、骨身に徹しないと走りださない馬のことです。第一の馬というのは、遠い村や町で亡くなった人があることを伝え間いて、それを自分の命の今日、明日の姿と受け止め「うかうかしてはおれない」と本気で人生に取り組む人のことをいいます。第二の馬というのは自分の村や町で亡くなった人があるということを聞いて、おのれの無常を覚り、立ち上がる人。

第三の馬とは、自分の親の死、親族の死を眼前にして、ようやく気づく人のことであります。最後の四つ目の骨身に徹してやっと走りだす馬というのは、自分自身が死の床に臥し、お迎えの近きを知って、遅ればせながら気づく類の人です。自分が迎えにこられてからでは手遅れです。事件・事故・災害そして人の死に私たちがでくわすということは、まのあたりに人の世の無常を感じることであり、ごまかすことなく間き、見据えることではないかと思います。ひとごとではなく、自分のこととして受け止めねぱなりません。逝きし人が最後に、あとに残る者たちに残す言葉があるとしたら、

 

「死ぬんだよ。あなた方も。この私のように。必ずその日がやって来る。しかも、いつやってくるかわからない。予告なしに。いつ死んでもいいように、毎目、毎時問を大切に生きなされ」ということではないでしようか。相田みつをさんの「そのうち」と題する詩があります。

 

そのうちお金がたまったら そのうち家でも建てたら そのうち子供から手がはなれたら そのうち時間のゆとりができたら そのうちそのうちそのうち…とできない理由を繰り返しているうちに結局何もやらなかった空しい人生の幕がおりて頭の上に淋しい墓標が立つそのうちそのうち日が暮れるいまきたこの道かえれない

死を忘れ、無常の命を忘れたとき、そこにしのびよってくる思いが「そのうち」というまのびした心の姿勢であり、生き方でありましよう。いつどうなってもおかしくない自分。私だけは違う、の通らない時代。もう目をそらしている場合ではない。ならば、毎日、毎時間、瞬間の生き方が間われているのではないでしようか。どうです、一番考えにくいことかもしれませんが、少しそんなこと真剣に取り組んでみませんか。



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「おはぎの小豆は、いつ死んだのか」

真言宗豊山派発行の雑誌でおもしろいお話を読みましたので紹介いたします。

『おはぎの小豆は、いつ死んだのか』

おはぎの小豆はいつ死んだのか。あるお寺でご住職が、集まった方々に出した問題。ワイワイガヤガヤお互いに顔を見合わせて真剣に議論。出てきた意見を順番につなぐとこうなります。

「そりゃ、小豆のさやを茎からちぎったときではないか。」

「いや、ぐつぐつ煮立ったお湯に入れられたときだろう。釜ゆでだもの。」

「まだまだ、やはりゆで上がってつぶされた時ではないか。」

「ああ、それじゃひとたまりもない。」  すると、そこで信心ある者がこう言いました。

「しかし、おはぎの小豆はおはぎのために作られたのだから、もち米にベタベタと塗られてはじめて、その役目を果たしたことになるのではないだろうか。」

「そうか、死んだというのも小豆の役目と考えると話は違ってくるぞ。」

「それなら、無事におはぎになった小豆だって、食べてもらわにゃ死んだことにはならない。」

「そうだ、食べてもらってやっと役目が終わる。」

「しかし、誰も食べないで残ったやつはどうなるんだ。」

「腐ったりしたら、それこそ死んでも死にきれぬ。」

「大丈夫。こやしになって草木を育てていくよ。」

「そんなこといったら、食べられた小豆だって、人間の命を支えていくんじゃないか。」

「なんだ、どうころんだところで、役目は終わらないじゃないか。」

「ほんとだ、小豆は死なないってことか。」

そう考えると、人間だって同じじゃないですか。と、ご住職。

「しかし、人間は死ぬだろう。」

「いや、普通に言う死ぬというのは、小豆で言えば茎からもぎ取られた時だ。」

「そうだ、親や兄弟とわかれなくちゃならないからな。」

「でっかいスケールで見ると、人間も死なないのかなぁ・・・」

でっかいスケールと言うのは、仏の眼と言い換えてもよいでしょう。おはぎのあんこにもそのスケールを合わせてみると、小豆の命はどんどんふくらみ、人の命もムクムクと厚さを増していきます。

いかがでしたでしょうか。「いのち」のみつめかたが、おもしろく話になっています。実に仏教的だと思いました。漢字で「生命」と書きますと、保険のかかる方、すなわち小豆が茎からもぎ取られた時なくなるいのちをさします。しかしひらがなで「いのち」と書きますと、でっかいスケールの、仏の眼で見ていく、広がりのある、永遠に続いている、厚みのあるいのちをさします。私達は「生命」にとらわれすぎになっていて「いのち」を忘れがち。いや「いのち」が見えてないような気がします。どんなものにも「いのち」が宿っています。広がりのある、厚みのある、エネルギーを私達に与えてくださる「いのち」が宿っています。それに気がついていくこと、これが仏様の教え、日々の信仰でわからせてもらうことではないでしょうか。静かに手を合わせ、あなたも「おはぎの小豆は、いつ死んだのか」を考えてみて下さい。